第十話 慈悲のココロ
空港の出口には今回ガイドとして同行してくれるアル・ロスタリヤ君が待っていた。
彼は数年前に日本に密航して来ていて、その時に知り合った友人である。
日本語は結構流暢に話す。
「やあ、アル。久し振り!」
満面の笑顔で大きく手を広げてハグ。
「ミーヤモト、げんきねエ、ヨッシャヨッシャ。」
私の背中をパンパン叩いて喜んでくれた。
独立と言っても、軍事政権の一派が大まかな政府を主張していると言った形で
内戦は未だに続いてはいるが、かつて程ではないと彼は言う。
場所をわきまえれば案外安全な国になったと言う彼の誘いが今回のヘレス訪問を
私に決意させたのであった。
空港から出るとアルは脇に止めてあったハーフ・トラックに私の荷物を放り込んだ。
映画では見た事はあるが、後輪がキャタピラのハーフ・トラックは始めてだったので
少し驚く。アルは私の様子に気がついてクスリと笑った。
「軍の払い下げだよ。砂漠でも何処でも平気ねエ。窓は防弾ガラスだから安全ねエ。」
ちょっと可笑しなアルの陽気な日本語に勇気つけられて、トラックに乗り込んだ。
「取り敢えず、アルの家,行く。」
陽は高く照りつけ、気温は40度くらいあるのだが乾燥した砂漠の気候は案外私にも
平気だった。
湿気の多いジャングルに比べれば・・と言うおまけはつくが。
トラックはちゃんとクーラーが効いていて、入った途端ヒヤリとしたが・・それも
外気との差のせいで、多分30度は越えているだろう。
空港から砂漠に向かって一本、真っ直ぐに道路が伸びている。
空港の数百メートル先からは舗装も切れ砂漠の道に入る。
モウモウと砂煙を上げてけたたましいエンジン音でハーフ・トラックは力強く進む。
話をするにも大声で怒鳴りあうと言った方が正しいだろう。
暫定政権になって、ようやく仕事らしい仕事が見つかって生活が安定して来たとか、
彼の美人の奥さんが8人目の子供を先日産んだ事などなど、彼の近況を聞く。
小1時間も走った頃だろうか、先方で砂煙が上がった。
「戦闘だ!」
アルは車を道から砂漠に乗り入れ、僅かな窪地で止まった。
そうして車を降りて窪地の上に走って行き、伏せた。私も同様にする。
距離にして1kmと言った所か、機銃の音が数分聞こえた後、燃え上がる車を残して
数台の車が砂漠の中へ遠ざかって行くのが見えた。
「あれは多分山賊ダヨ。旧国軍の生き残りが時々襲って来る事ある・・。」
その後も10分ほど私達はそこに伏せていたが、
「もう大丈夫ねエ」
とアルは立ち上がった。
車を道に戻して走り出した。
炎上しているのは2台の車・・その回りに数人の死体が転がっている。
・・と、その中の一人が微かに動いている。
「アル!車を止めろ!まだ生きているゾ!」
しかし、アルは車を止めない。走り続けるのであった。
「おい!なぜ止めない!!生きてる人間がいるんだぞ。」
アルが前を見ながら言った。
「ミーヤモト、この国、病院無い。
神は自然のまま生きよ教える。
そうして死ぬも自然。
戦いで傷ついた者、助ける事は法律で禁止されている・・・。」
私は唖然とした・・・。
病院が無い?助ける事は法律違反?
そんな世界がある訳が無い!
足を伸ばしてアルの靴の上からブレーキを踏んで車を止めた。
「私は嫌だ!この国にどんな神がいて、どんな法律があるか知らないが、
傷ついてる人間を助ける事に何のためらいがいる!
そんな法律はクソッ食らえだ!」
私は車を降りて燃えている車に向かって走った。
数百メートル通り過ぎているから現場まで結構ある。
炎天下に走るには私の体力はあまりにも無さすぎた。
半分も走らない内にゼーゼー、一端止まって休憩・・。
そこにアルが後ろから来て車を止めた。
「日本人・・仕方ないね。」
ニコリと笑って乗れと合図をくれた。
私が乗り込むと車は現場に向かって走り出した。
アルは何も言わない。
現場について、私はまっすぐにさっき見かけた人物のところに駆け寄った。
「おい、大丈夫か?」
見た感じ中老の男である。
声をかけて近づくと顔をこっちに向けた。
意志の固そうなキリリとした目をしている。
「△○○××・・・」
吐き捨てるように私に向かって唸った・・。
私はたじろいだ。
身体の下になっていた手がズルズルと動いた・・。
手には拳銃が握られている。
「私は強盗じゃあない!」
叫んだが、日本語が通じるはずも無い・・・。
銃口が私を向いた・・。
熱風の砂漠に銃声が鳴った・・。
しかし、乾いたその音は響く事も無く空中に飲まれた。
アルが後ろからやって来て、私の肩を引っ張った。
「ミーヤモト、大丈夫か?」
私は腰が抜けてしゃがみこんだままで、男の銃口から立ち上る煙を見ていた。
男は更に次の引き金を引いた。
が・・玉が尽きたらしい。
銃鐵のカチンと言う音がかすかに聞こえた。
「○○××△△○○××△△」
アルが男に向かって怒鳴った。
男は拳銃を手から落とし・・ニヤリと笑って落ちた。
アルが私の肩をポンと叩いた。
幸いにも彼の銃弾は私には当らなかったのである。
アルが男の傍に行って抱き起こし、首を横に振った。
男はコト切れていた。
アルは男の胸元に小さく砂山を作り、何かしらお祈りをした。
残りの3体の遺体にも同様にした。
「さあ、行きましょう。」
アルの手を借りて車に乗り込んだ。
車は何事も無かったかのように、元の道に戻る。
「さっきの男、ミーヤモトを撃った、何故?分かるか?」
アルがポツリと言う。
「盗賊が戻って来たと思ったんだろ・・」
「チガウ・・ミーヤモトはヘレス人ないダロ。彼は構うな・・と撃ったよ・・・。」
「構うな?・・助けるなってこと?」
「そだよ。ヘレス人は助けられる事は屈辱ね。自分で生きれないは受け入れる。」
「そんな・・馬鹿な・・」
胸がズキンと痛んだ。
「助けるは子供、家族だけ・・10歳を越えたら大人だよ。
大人は一人で生きる。
怪我したら自分で治す・・治せない・・死ぬだけ。
事故合う・・生きるか死ぬか・・運命。
戦争も同じね・・撃たれる・・死ぬ人、死ぬ。」
私は唖然とアルを見つめた・・。
「この国、病院無い・・なぜなら誰も病院行かない。
運命受け入れるだけ。」
頭の中が混乱して私は言葉を失った。
「でも、アル、日本でミーヤモト達に教えを貰った。今はそう思ってない。」
アルが私の方を向いてニコリと笑った。
車の中でその他にも様々な事を聞く。
この国の驚くべき神の教え。
それは深く根強く浸透している。複雑な歴史と人々の観念。
内乱は族長争いレベルからそう遠くない所で起きていて人民レベル
では無い事。などなど・・驚く事ばかりであった。
襲撃場所から1時間以上走り続けようやくアルの家についた。
石積のとても長い壁の一角に門がある。
かなり大きな家である・・。
車のホーンを鳴らすと門が開いて人々がゾロゾロ出て来た・・。
本当にゾロゾロ・・。
人垣の中を抜けるように車は門から中に入った・・。
広場の向こうに幾つもの建物がくっつくように並んであった・・。
どう見てもこれは家では無く「村」である。
車は一番端の大きな家の前で止まった。
車の周りには人垣が出来ていて興味深深の目を私に向けている。
「これみんなアルの家族ね。」
ニコリとアルが笑った。
そいつはウソだろ・・ざっと百人はいる。
車を降りると子供達が一斉に私を取り囲み、その中の数人が
私の手を引っ張るのだ。
「ミーヤモット、ミーヤモット・・」
と私の名を連呼しながら引っ張るのだ。
アルはその光景を笑いながら見ている。
「アル・・どうしたら・・」
助けを求めてみたが笑っているだけ・・。
子供達に引かれながら大きな家の中に入った。
・ ・中に入ると・・黒板があり、机が並んでいた・・。
そこは紛れも無く学校だった。
黒板にチョークでこう日本語が書かれていた。
<ヨウコソ、マリアネッタ小学校エ ミヤモト先生>
えっ・・先生・・?
後ろを振り向くとアルが村人達とニッコリ笑っている。
アルが言った。
「この国には仏居ません・・。
ヘレスの子供達に慈悲のココロ教える。
この子達が慈悲をこの国に教える。
アルが日本から教えてもらった、人を救うココロ。
宗教でないココロ。」
それを聞いて、先刻出会った男の事を思い出した。
「ミーヤモト、ここで暮らして先生やる。日本に帰さない。」
この瞬間、私は彼等に拉致された事を知った・・。
アルは日本を訪れる前に十数カ国放浪したそうである。
しかし、何処の国も自らの宗教を語り他教を遠ざけた・・。
ところが日本は宗教を語らずに慈悲と言うココロが溢れていた。
元々は仏の道だったが、仏の道を越えてココロという中に「慈悲」が見えた
・・とアルは言った。
損得勘定など無視したそのココロにアルは痛く感動したそうである。
「この国を、ドギャンカセントイカン」
正に私がその口火だった訳だ。
この後5年に渡って私はこの村に監禁され、この国を出る事が出来なかった。
小学校には子供達だけでなく大人もよく来ては私と議論をした。
何故人を助けるのか、助けてもらうのか。
このヘレスの法律の何処が間違っているのか。
子供達はどうやってこの国の未来を作って行ったら良いのか・・。
自分たちは子供達に何をしてやれるのか・・。
病院の設立や医師の確保。
学校の設立や教師の確保。などなど、モロモロ・・。
混乱の国の目を掠めて私も何度か誘拐に手を貸した。
最も、喜んで誘拐されてくれる人々だけに限った事だが。
内乱は未だ収まる傾向には無いが、徐々に人を救うココロは広まりつつある。
政府の中からも、そう言った「過激」な発言者が現れ始めているらしい。
「計算誤差はどの位ありますか?」
一人のジャーナリストが記者会見場で切り出した質問にメーカーはキッパリと答えた。
「このMARIAに関しては誤差やバグは存在しません!」
「どうしてそう言えるのですか?」
メーカーの担当者はニコリと笑って自慢げに答えた。
「世界中の科学者がこの1年あまり、様々な分野からMARIAを分析しお墨付きを
頂いております。誤差について一件も報告されておりませんしどの科学者も完璧
であると報告がありました。」
ジャーナリストはボールペンで頭をポリポリかきながら更に質問した。
「私には良く分からないのですが・・その検証実験と言うのは何をお使いで?」
「MARIAの生まれる前に世界最高と言われたコンピュータ群です。」
ジャーナリストは顔を曇らせた。
「あーーー、頭の悪い私にはそこんとこがちょっと分からんのですが・・・。
MARIAの性能はそのコンピュータ群と比べるとどの程度の差になるのでしょう?」
メーカー担当者はちょっと困った顔をしたがハッキリと返答した。
「どう言う形で差を表すか難しいのですが、世界中のコンピュータ群を使って1年
掛かる計算をMARIAならば多分数分程度・・・と言う答えで宜しいでしょうか?」
ジャーナリストは深い溜息をついて天井を仰いだ。
「所詮、私の頭ではあんまり想像できないんですが、もう一つ質問して良いですか?」
メーカー担当者はにこやかに頷いた。
「どうぞ、何でも答えますよ。」
「MARIAが1年掛けて計算した答えの実証実験は可能ですか?」
回りの記者達もざわざわとざわついた。
暫く考えてメーカー担当者は答えた。
「そうですねえ・・・MARIA2を早急に作れば可能です。」
「はあ?」
ジャーナリストは口をポカンとあけたまま固まった。
即日、「MARIA」は封印された。
樫井先生が確かめるように念を押した。
「このクスリで基本的な人間の本質以外の全ての記憶が消える。君は完全な
記憶喪失状態に陥る。家族の事も、小さな頃からの思い出も一切合財消えて
無くなってしまうのだよ?本当に良いんだね?」
僕は先生の目を見ながら頷いた。
先生は意を決したように立ち上がり、点滴のコックを回した。
ポタリ・・・・・ポタリ・・・・点滴が落ち始めた。
「眠りに入るまでまだ時間があるから、少し話そう・・。その内眠りに陥るさ。」
樫井先生は子供の頃からお世話になっている元内科医で、引退されてからは
ここ岡山で、僕のような人生に疲れた人間の為の相談所を開いている。
「人生を消す事はそう難しい事でもない。」
先生の言葉に意を決して、誰も知らない処でまっさらな人生を生きる事を選んだ。
「もう一度君の今後のカリキュラムを確認しておく。
君が目覚めるのはここから遥か離れた北海道の斜里と言う町だ。
冬は流氷に閉ざされ寒さも厳しいが、人々は暖かいから安心なさい。
今は夏・・そうもうすぐお盆の頃だね・・。
せみがミンミン鳴いて夕暮れには秋風が吹く気持ちの良い季節だ。
・・天気だと良いね・・。
目覚めはお寺の境内だ。周りには誰もいない。
多分君は暫くきょとんとしているはずだ・・・自分が誰なのかも、そこが
何処なのかも分からないの だからね・・。
そこに一人の女性が現れて声を掛ける。
私がお願いした女性だから安心したまえ。
その女性と君は新しい人生を歩く事になる。
仕事は漁師だ。漁師と言っても 沿岸漁業だから自然と身につくだろう。
漁労長は個人的に私の知り合い・・で密か・・君の事を頼んである。
・・・・だから・・期待した・・・としても大丈夫・・・・
(先生の話がうつろになって来た)
君が失踪した後始末も私や仲間が・・上手く納めるから安心しなさい。・・・
・・・女性の仕事は・・・・そこは・・・。・・・・・・・・・・・・・・。」
頭がガンガンする。
後頭部が熱い・・・この感触は・・覚えている・・・お天等様のものだ・・。
ゆっくり目を開けた。
地面が見える。一面砂利だ。・・・ここは何処だ?
耳にうるさい音が響いて来る・・せみの声だ・・懐かしい思いが巡るが、何故
懐かしいのかは分からない・・何となくそんな思いがしただけだ。
ゆっくり目を上げて周りを見回してみる。・・・何処なんだろ?
広い砂利の庭の片隅に僕は座っている。
座っているのは一抱えもありそうな庭石だ・・。
空は抜けるような青空で、太陽がギラギラしている。
右手に大きなお寺の本堂が見える・・・ここは何処かの寺のようだ・・・。
周囲には誰もいない。
蝉の鳴き声だけが響き渡っている・・・・なんでここに居るんだろう・・・・。
頭の中は妙に澄み渡っていて、暫く回りの景色を眺めていた。
・・・・ボーッと暫く眺めていたが、ふと何で眺めているんだろ?
と言う疑問が沸いて来た。
同時に、眺める以外に何かすると言う意識が浮かんで来ない自分にちょっと驚いた。
・・・まあ、良いか他にする事も無いし・・・またボーッとして暫くそこに座っていた。
ジャリ・・ジャリ・・、足音が聞こえる。
誰かが門の方からやって来る。白い日傘が見える・・。
着物を着た女性のようだ・・。
その女性は僕に気づくと「こんにちは」と頭を下げた。僕は立ち上がりながら
「あ、・・・こん・・に・・ちわ」・・突然の事でちょっと上ずった。
「お墓参りでいらっしゃいます?今日はお暑いのに大変ですわね・・。
失礼ですがどちらのお家の方でございますか?」
ニコニコと優しそうな30歳を少し越えた感じの清楚な女性に話しかけられ、
言葉につまってしまった。
「あ・・はあ・・あの・・・その僕は・・・」
と言い掛けて僕は驚いた・・僕の名前は?僕は誰だ?・・・
思い出せない・・・と言うか、頭の中に何も無い・・・
何か思い出そうとしても掴むものが何も無いのだ!
女性の顔を見つめたまま、言葉が出ない・・・
「ボ・・僕は・・誰でしょう?」
「はあ?」
女性は驚きの目で私を見つめている。
「ここは・・何処ですか?」
「見ての通りお寺よ・・・・?お家は斜里の方でらっしゃいます?それとも
他からいらしたの?」
私は頭を抱えた。
「シャリ・・?知らない・・・
僕は・・・僕は誰で・・・・何でここにいるんでしょう?」
私はめまいがして腰を抜かしたように石に座り込んだ。
女性は不思議な顔をしながらも、特に恐がる様子も無く首を横に振りながら言った。
「まるで記憶喪失の方ようですわね・・・。暑さのせいかしら?
こんな炎天下にいては思い出すものも出ては来ないでしょう。
悪い方には見えませんし・・私のお家、すぐそこですからおいでなさい。」
優しい笑顔で手を差し出された。
夢遊病者のように私は立ち上がり女性に引かれるままにその場を離れた。
一面ジャリの庭から周囲の開けた舗装に出ると目の前にのどかな町並みが見えた。
どうも、田舎らしいが、寂れたと言う感じはあまりしないところだ・・。
遠くに水平線が見える・・海の近くらしい。
見回してはみるが、何処もかしこも見覚えは無い。
遠くの山並みも初めて見る景色である。
100mほど歩いたろうか、一軒の家の前で立ち止まった。
「こちらです。遠慮なさらずにおあがりなさいな。」
ガラガラと大きなガラスの引き戸を開けて玄関に入る。
靴を脱いで上がりこむと直ぐに居間。四角い座卓が置いてある。
「そこに座ってらして・・。何もないけど冷たい麦茶でよろしかったかしら?」
「あ・・はあ・・お構いなく・・・」
見回すと何とも懐かしい匂いがする部屋である。
襖に障子に縁側・・縁側には風鈴が時々風にリーンと涼やかな音色を立てる。
柱には日めくりカレンダー・・レトロだ・・。
開け放った窓から縁側に静かに風が通る・・・リーン・リーン・・。
穏やかな日本の夏の風景と臭いがそこにはあった。
ふと・・私は自分がスーツ姿であるのに気がついた。
ジャケットを脱ぎ、Yシャツのネクタイを緩めた・・何か開放された気分・・。
麦茶を入れたコップを2つお盆に乗せて女性が台所から戻って来た。
「申し遅れました、私、一ノ瀬梨乃(りの)と申します。
実を申しますと、私も最近こちらに引っ越して来たばかりなので、あまり
詳しくはこの町を知りませんのよ。」
コップをテーブルに置きながら、にこやかに自己紹介してくれた。
「でも、お隣さんや出会う方々は皆親切な方ばかりで良い町よ。」
麦茶の氷がカランと鳴った・・。冷たい麦茶が喉に心地よい。
事情を聞かれたのでさっき目が覚めた時の事を素直に話した。
「やはり・・多分記憶喪失ね・・前にもそんな方と会った事があります。
あなたと同じような感じ、何も覚えていなかった・・。
言葉や生活習慣は覚えているのに、他の事は何も覚えていらっしゃらなかった。
その時のお医者さんにお話をきいたのですけど・・・。
記憶喪失には大抵何かしらきっかけがあって、戻るか戻らないかは誰にも
分からないのですって。
戻るとしても何日後かもしれないし、何年後かも知れない・・。
まあ、どちらにしても後でおまわりさんにも届け出ましょう。
見た感じ、疲れておいでのようですから、ゆっくり休んでから参りましょう。
何かあなたの手がかりが見つかるかも知れませんし・・・。
これも何かのご縁かも知れません・・・。
手がかりが見つかるまで、家に部屋が空いていますから、暫く居候しても良ろしくてよ。
娘との女二人暮らしは少し不安ですもの、用心棒に雇ってさしあげますわ。」
自分の事は何者か分からないが、目の前の女性がとてもココロ暖かな人だと言う事は
分かった。
甘えて良いのかどうか、的確な判断は出来ないが、どっちにしろ今は流れに
任せてみようと、この日から可笑しな居候が始まった。
梨乃さんには綾乃(あやの)さんと言う中学2年生の娘さんがいた。
最初はけげんそうな顔を見せたが直ぐに打ち解ける事が出来たのは幸いだった。
翌日には警察に届け出たものの、僕に関する捜索願いらしきものは特に無かった。
「一応札幌の北海道警察にも当ってみるね。」と所長が調書を取った。
宿無しの僕の事情が事情なので、一ノ瀬さん宅に居候する事を了承頂いた。
所長が「名無し」と言う訳にも行くまいと仰り、寺の門にいたと言う事で
仮り名(かりな)として「寺門(てらかど)一男(かずお)」と言う名前をつけた。
記憶が戻るか僕の素性が知れるまでと「寺門一男」で調書にも記載された。
梨乃さんは着物の着付け教室を開いている。
そのため、午後から私は散歩に出る日が続いた。
その散歩の途中で漁師の中丸さんと言う方と顔見知りになった。
お話しをしている内に
「そったエエ身体余してるんだら、磯船を貸すから海に出ねか・・?」
と言う誘いがあり、漁労長の許しも得て「見習い漁師」がその後の日課となった。
漁師仲間は私の事情を知りながらも、その事には触れなかったし、まるで
昔からの旧友の如く皆親切にしてくれた。
1年経っても私の過去は分からず仕舞い。また記憶も戻らない。
綾乃ちゃんは中学3年生で高校進学の受験勉強に余念が無い。
いつだったかおふざけで
「まるでお父さんみたい??」
と言っていたと思ったら、いつの間にかあだ名が「お父さん」になったようで、
夢のようなつつましい家庭に私は幸せだった。
記憶喪失以前の私が独身だったのか、それとも妻帯者だったのか・・・1年の間
一度たりと、微かにも記憶が過ぎるようなことも起こらなかったのである。
居候になって3回目の夏・・2年が過ぎても一向に記憶は蘇らない上、僕の
言葉使いから出身は関東かも知れないと、東京でも捜索願いを探してもらった
のだが成果は無かった。
綾乃ちゃんは北見市の高校に入学。下宿生活をしながら、でも週末になると
理由をつけて帰って来る。
夏休みともなると私の船に乗り込んで来る。日焼けをしたくないと日傘をさして
磯舟に乗るから、この光景が案外地元の名物になっている・・困ったもんだ。
斜里の夏は短い・・磯舟漁は6月から9月の4ヶ月程度。
陸に上がっている間は近所のスーパーマーケットでレジを打たせて貰っている。
以前何をしていたのか知らないが、自分でも驚く事に最初からブラインドタッチで、
それも滅茶苦茶素早く打つ事が出来た。
バーコードが主流の現代にあって、未だにボタン打ちのレジスターしかない
スーパーマーケットで「希少品的おっさん」と言われ案外重宝されている。
4回目の夏を向かえ、僕は一つの決心をした。
どんなものなのか知らないが、もう過去を捨てる事にしたのである。
夏休みで綾乃ちゃんも家にいるうちにと、思い切って梨乃さんに告白した。
「僕は自分が誰なのかは知らないが、今の生活にとても幸せを感じています。
あなたとなら、いや・・こんな僕でよければ結婚して頂けませんか?」
梨乃さんと綾乃ちゃんは大きく目を見開いて驚いた顔をした。
そして、顔を見合わせ、何か呟いて二人して泣き崩れた。
「あ・・あの・・・僕は、とんでもない事を言ってしまったのでしょうか?
・ ・・そうですよね・・・どこの誰か素性も分からない男を・・・」
「そうじゃないの・・!違うんですよ一男さん・・・。嬉しいんです、とっても。」
涙を拭きながら梨乃さんは僕の方を向いた。
綾乃ちゃんも僕のほうを向いて膝をそろえた。
綾乃ちゃんが一度きりりと口を結んでからゆっくり言った。
「一男お父さんを私は大好きだし、お母さんと一緒になって欲しいとずっと思って
いました。でも、一つだけ条件があります。」
僕はツバを飲んだ。
「どんな条件なの?僕に出来ることかい?」
綾乃ちゃんは首を縦に振って
「今後、どんな事があっても、この3年間で築きあげた暮らしと愛情を変ること
無く守って下さい!これはとっても大切なお約束です!!」
「勿論さ!約束する!男に二言は無い!」
梨乃さんが私の手を取って言った。
「それでは、明後日、見届け人の方に逢っていただきます。
その方の前でもう一度同じ誓いを立てていただけますか?」
・・・見届け人?・・・よく分からないけど誰にだって今の自分は胸を張れる。
私はしっかりと頷いた。
この人とでなければもう、私はこの先の人生を生きてはいけない!
本心だった。
翌々日梨乃さんは女満別空港までその見届け人の方を迎えに行った。
昼になる頃、漁労長や中丸さんや漁師仲間、挙句のはてに警察署の所長さんまで
我家にやってきた。
「よお、日本一の幸せ者!こりゃ、結婚式の祝酒だ!とっとけ。」
ゾロゾロと狭い家の中に上がりこんで来る。
僕はあっけに取られるばかりだ。
綾乃ちゃんが台所と居間を行ったり来たりして肴の用意をしている。
その内早々と漁労長辺りがビールを開けて飲み始めた。
まあ、いつもの事ではあるが、豪快な方たちであること・・。
そこに梨乃さんが見知らぬ御老人をつれて戻って来た。
優しい目をしているが、やけにリンとした、立派な口ひげを蓄えた御老人である。
梨乃さんとその見届け人の御老人がテーブルに座った。
他の皆はテーブルから一歩下がった形で座っている。
私は綾乃ちゃんと並んで二人の正面に座った。
御老人が口を開いた。
「君が梨乃さんと一緒になりたいと言う男性かね?」
「はい、始めまして、寺門一男と申します。」
「うむ、面構えが非常によろしい・・・。
綾乃君から言われた事、しっかり私にも誓えるか?」
「はい、今後何があろうとこの暮らしと二人への愛情を変らず守り続けます。」
「本心か?今後君の過去が判明しても、それは変らないと誓えるのか?」
「はい、誓います。」
私は深々と頭を下げた。
「梨乃さん、綾乃君、お二人ともよろしいかな?」
梨乃さんが静かに言った。
「ええ、私は一男さんでしたら生涯の夫として連れ添いたいと思っています。」
綾乃ちゃんも言った。
「私も一男さんがお父さんだったら何も言う事はありません。」
御老人はうなずいて傍らのカバンから薬ビンを取り出した。
「一男君、何も言わずコレを飲みたまえ。」
意味は分からないが、差し出された3個のカプセルを飲んだ。
暫くするとめまいと激しい頭痛が起こった。・・えっ?毒?・・・??
「わーーーー、頭が割れる・・・・。」
僕は倒れてその場でのた打ち回った。
しかし、回りの誰も彼も見ているだけ・・助けようともしない。
「ご・・御老人・・何・・を飲ま・・せた?」
髭の老人はじっと私を見つめている・・。
梨乃さんと綾乃ちゃんの心配そうな顔が見える。
しかし、決して僕を助けようとはしないのである。
どのくらいのた打ち回っただろうか・・
少しずつ傷みが薄らいで来ると同時に頭の中に何かが溢れて来た。
ジワジワとスポンジから水が染み出るような変な感じである。
はあはあ荒い息継ぎで目を開けると梨乃さんが心配な顔をして覗き込んでいた。
「あなた・・・修一さん・・・大丈夫?」
「ああ、梨乃・・大丈夫だ・・・やたら頭痛がしてさ・・でももう大丈夫だ。」
ん?・・梨乃・・・梨乃だ・・・でも・・なんかイメージ違わないか?・・・
でも、この愛おしい気持ちは・・・
修一・・・?ああ、そうなんか久し振りに呼ばれた気が・・
「お父さん、大丈夫なの?」
今度は綾乃が心配そうな顔を見せた。
「おお、アヤ!大丈夫だ・・痛みは殆ど無くなって来た、心配ない。」
・・・ん?なんか大人っぽくないか?・・でもいつものアヤだな・・。
あん・・・高校生だもんな・・。・・・・・・・
あれ?ここは何処だ?・・・いつもの我家だ・・・。
そう梨乃さんにプロポーズしたんだっけ!・・・ん?・・・梨乃にプロポーズ?
僕は身体を起こした。目の前には御老人・・・!
「樫井先生!・・・!!」
私は周囲を見回した。いつもの仲間達がじっとこっちを見ている。
「あああ・・・・あああああああ・・・・!!」
僕は胸が締め付けられて狂おしく、涙がとめどなく溢れて来た。
今ハッキリと全ての記憶が蘇った・・・。
目の前には3年前岡山に残してきた女房と娘がいる・・・
捨てて来た家族だ・・でもこんなに愛おしい・・・。
「梨乃・・・綾乃・・・ごねんな・・・ごめんな・・」
あとは言葉にならなかった。涙が止まらない。
僕の記憶をまっさらにして、捨てた筈の女房と娘の3人で、全く新しい人生を
作りあげた3年間。思い出しても過去は薄れていて、新しい3年間の愛情が
打ち勝っている。
「一ノ瀬君。もう大丈夫だね?やり直せるね?」
にこやかな樫井先生の言葉に僕は大きく笑顔で頷いていた。
収録作品:第一話「宇宙消滅の日」/第二話「奥様は動物がお好き」
/第三話「魔法ワークス」/第四話「ブンブンブン」
/第五話「異世界からの漂流者」
/第六話「スーパーマンの都市」
/第七話「厳選なる抽選」/第八話「未来を生む植物」/第九羽「戦勝国の憂鬱」
/第十話「慈悲のココロ」
/第十一話「完璧!人工頭脳MARIA」 /第十二話「記憶」
/第十三話「名も無い手紙」
/第十四話「Mの恐怖」